「不謹慎狩り」という言葉が流行ってるらしい。
被災して苦しんでいる人がいるというのに、⚪︎⚪︎するとはケシカラン!という風潮。人はとかく「実」より「心」を重んじる。
しかし、口に出せば批判の嵐なことを覚悟でいえば、実際に本当に困っている被災者の身からすれば「同情するなら金をくれ」的気分なのではないか。私だったら絶対そう。もちろん気持ちも嬉しいが、そういう時は「先立つもの」のほうが助かる。
しかし、本音は絶対に言ってはいけない。
ホリエモンなんかは、それをストレートに口にするがために叩かれる。
世の中には、”真実ではあるが、言ってはいけない”事柄が数多くある。
「カエルの子はカエル」というのがほぼ真実であるということも、人は中身!といいつつも、美人が得をするなどということは常識として誰もが知っている。
しかし、それらの事実はあまりに不愉快なので口に出してはいけない。建前上は、人間誰しも平等であり、努力する人は報われるということになっており、真実ではないその「建前」を前提にして世の中は成り立ってもいるのだ。
本書は、そういう現実を書いた本である。
驚いたのは、その「残酷な真実」が思っていた以上に残酷だったことだ。
よく「人は氏か育ちか」というが、私はその両方が人を形成するものだと思っていた。確か、今まで読んだ本にもそう書いてあったはずだった。
だが、最新の「行動遺伝学」による一卵性双生児の研究によれば、違うらしい。子育て、教育といった「環境要因」は、私たちが考えているよりもはるかに影響が少ないらしい。
病気や体質は当然のことながら、知能の高い親からは知能の高い子供が生まれるし、その反対もまた然り。努力は遺伝にはおよばないという。精神疾患や依存症もそうだし、性格や犯罪者になるか否かでさえ遺伝子に依っている。
人種における知能差も明らかなのだという。黒人は、白人やアジア人に比べIQが低めなのだそうだ。
このように本書には、著者が進化や最新の遺伝学や脳科学研究の本を読み込んで裏付けを行った、知れば知るほどに不愉快になる類の事実が書かれている。
ただ、「努力は遺伝にしかず」については、私は少々思うところがある。IQ180の人とIQ75以下の人の学力を比べればその通りだろうが、同程度ならばモノをいうのは努力だ。私の知る限りいわゆる天才といわれる人たちは、皆大変な努力家である。
それはさておき、残酷な真実はやはり真実であるのもまた事実である。ユダヤ人が概して優秀なのも事実だし、100m走のタイムでは日本人選手は黒人選手に分が悪いのも常識だ。
だが、著者が問題にしているのは「不愉快で残酷な事実」そのものではなく、誰もが「平等に知力を持っている」などという理想の「建前」を前提に成り立っている社会のほうだ。
黒人に対する逆差別も然りだし、男女平等を推し進めていくにつれ、その双方の幸福度が下がっていくのも例外ではない。
神戸連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇や、最近では佐世保女子高生殺人事件の加害者の親は、相当なバッシングを受けたが(佐世保の事件の父親は自殺した)、あれほどまでのサイコパスを前に親にできることはなかっただろう。
遺伝学が明らかにする「残酷さ」よりも衝撃だったのは、「子供の選別と親の免許制」という発想だった。・・・これは、全くナチの「優生学」ではないか。
だが、「子の選別」というのは、実は日本でもとっくに行われている。
出生前診断(新型出生前診断)でお腹の子がダウン症だということがわかれば、実に95パーセント以上の親が中絶を選択しているのだ。
出生前診断(新型出生前診断)でお腹の子がダウン症だということがわかれば、実に95パーセント以上の親が中絶を選択しているのだ。
本書では、さらに進んで、「将来犯罪者になる人間」をあらかじめ排除するシステムにまで言及する。犯罪癖や犯罪傾向もまた遺伝子が関わっているし、その犯罪遺伝子の発現には、乳幼児期の育成環境がものをいう。
そして、犯罪の生物学的基礎を考慮すれば、10歳で矯正教育をはじめても効果はさほど望めない。ならば、遺伝や乳幼児期の家庭環境に対処するため、「子供を産むにあたってはまず免許を取得しなければならない」という発想すらうまれる可能性があるそうだ。
そして、犯罪の生物学的基礎を考慮すれば、10歳で矯正教育をはじめても効果はさほど望めない。ならば、遺伝や乳幼児期の家庭環境に対処するため、「子供を産むにあたってはまず免許を取得しなければならない」という発想すらうまれる可能性があるそうだ。
「親の免許制」まではいかないが、実はイギリスでは「まだ犯罪を犯していない重篤な人格障害を持つ人の隔離」というのはすでに施行されているという。
今はただ荒唐無稽にしか思えないが、脳科学や遺伝学の進歩や犯罪率の上昇次第では、現実のものとなる可能性もなくはない。
遺伝学や脳科学の進歩とともに、それらの残酷さはもっと顕著になっていくことが予想される。だとしたら、それに気づかないふりをしてそっぽを向いているよりも、知識の偏向といった不愉快な事実にも向き合うことで、よりよい社会を目指したほうが健全なのではないか、と著者は示唆している。
果たしてそれが良い結果につながることなのかどうか、私にはわからない。
ただ、そう遠くない未来、目を背けてはいられない時が必ずやってくるだろう。
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