本書は紛争最中の北アイルランドを舞台にした警察小説である。
手にとるのは、音楽ファンか、北アイルランドという土地に惹かれるかのどちらかではないだろうか。もちろんその両方という方もいらっしゃることだろう。
タイトルのみならず、日本版の装丁にも使用されているのは、トム・ウェイツの「 Cold Cold Ground」。
北アイルランド紛争というワードこそ知ってはいるが、そもそも北アイルランドというのは日本人によってはあまり馴染みのない地域。政治的にも複雑なので、小説を読むに先立って、背景を理解するため「北アイルランド現代史」という本を読んでみた。入門書といってもなかなか難しくて、個人的に有益だったのは要領よくまとめられている巻末の訳者解説だった(笑)が、おかげで本書の舞台状況も理解しやすい。
簡単に説明すると、ブリテン島の横に位置するアイルランド島は二つの国に分かれている。北アイルランドとアイルランド共和国だ。北のプロテスタントに対して、南はカソリックが大半を占めている。北アイルランドという国は、自治権を認められつつも、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国、すなわちイギリスに帰属している。つまり、北アイルランド紛争問題は、この小さな国の複雑な政治的枠組みの正当性をめぐる問題なのだ。
大きくみると、まず、現状維持のままイギリスに属するべきだとする「ユニオニスト」と、南の共和国との統一を目指すべきだとする「ナショナリスト」に分かれている。政治的立場の違いはほぼ宗教と合致しており、前者はプロテスタント、後者はカソリックが多い。
よく耳にするIRA(アイルランド共和軍)は「ナショナリスト」の急進派、「リパブリカン」の一派だ。他方、「ユニオニスト」の急進派は「ロイヤロスト」と呼ばれており、本書にも登場するアルスター防衛同盟(UDA)やアルスター義勇軍はそこにカテゴライズされる。
主人公は王立アルスター警察隊の巡査部長のショーン・ダフィ。北アイルランドではプロテスタントが主流で、警察組織も例外ではない中、ショーンはカソリックで、しかも大学で心理学を学んだという変わり種だ。
舞台は1981年の5月の北アイルランド北東部のキャリックフォーガスという小さな田舎町。時はまさにIRAによるハンガーストライキの最中であり、チャールズ皇太子とダイアナ妃のロイヤルウエディングを控えている。
そんな中、右手を切断された男の遺体が発見される。当初はよくあるタレコミ屋の処刑かと思われた。が、遺体のそばに置かれた右手は別の人物のもので、遺体には男性との性交渉の後がありその直腸からは楽譜が発見される。事件はにわかに性的殺人、それも連続殺人の疑いが出てくる。時を同じくして、ハンスト中のIRAのメンバーの離婚した妻が首吊り遺体で発見されるのだが…
まず、北アイルランドという土地の特殊性が効いている。
ショーンがこの事件を上司に諮った際、上司はいう。「北アイルランドで連続殺人が起きたためしはない。」
このセリフに、トム・ロブ・スミスの「チャイルド44 」を思い出す。
極限下の正義という意味では共通するが、もちろん両者の状況は大きく違う。あちらはスターリン体制下のソ連。国家は連続殺人事件を認めない。一方、こちらは殺したければ、カソリック系であれプロテスタント系であれ武装組織に属しさえすれば、好きなだけ人殺しができる。
「チャイルド44 」のレオは異常な世界で正義を追求しようと奮闘するが、本書のショーンたちはまた違う異常な世界で、抗争とは無縁の本物の犯罪ということ自体に”正常さ”を見出そうとする。
北アイルランドという国が特殊であるのと同じくらい、ショーン自体も特異な存在だ。IRAはカソリックの警察官を「裏切り者」とみなして賞金をかけているため、ショーンは日々、自分の車に爆弾が仕掛けられていないかその確認を怠れない。
常に相反するものがあり、常に争いがあり、決してひとつにはならない場所において、そこに居続けるためには、自ら発狂するか、怠惰になるか、マゾヒストになるかしかない。だが、ショーンはそのどれも選ばない。
上述のように、私は北アイルランドの歴史と背景を知る意味で一冊ほどバラバラと読んでから本書を読んだのだが、読んでみて驚いたのは、この小説がそれらを実にうまく説明していることだった。しかも当事者性がある。
日常の恐怖のみならず、武装集団がEECの余剰食料等を無料配布することで意外にも豊かな食生活や、その風俗なども余すこところなく描写されている。
本書は、歴史小説であり警察小説であり、同時にハードボイルドであり、のちにエスピオナージ的でもあるが、知識欲を満たすという意味でも有意義だ。
ちなみに、作中で主人公たちが「はい」というところを「あい」と言っているのだが、スコットランドや北イングランド、アイルランドではYesが訛ってAyeというのだそうだ。正真正銘の「あい」だった(笑)
他に目を引いたのは、本書が「本格」の体裁をとっていることだろうか。猟奇的な連続殺人、被害者が同性愛者だという事実、遺体に残された意味深な楽譜。のみならず、ショーンのもとには犯人から挑戦状まで届くという徹底ぶりだ。
少々やりすぎな感じもしなくもなかったが、舞台設定が泥臭く暗く寒い分、華やかさを出すという意味ではちょうどいいバランスだったのかな…?
訳者の方のあとがきによれば、作者はどうやら島田荘司のファンらしい。本書はシリーズもので米国では現在までに6作が上梓されているそうだが、なかでも評判の高いものは密室もので、かの御大の影響を受けているという。
本書も絶妙な終わり方をしているので、すでに刊行が決まっているという続編が余計に待ち遠しい。
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