猫の次は「熊」でというわけではないけど、本書「熊と踊れ」は週末の読書会の課題本。
「こういう本って、別に語ることなんかないんじゃなの?」と言われたが、
いや、いや、そんなことないですよ。
というかそう思いたいけど、横浜読書会の常連さん向きではないかも…(笑)
著者の一人であるルースルンドは、これまでベリエ・ヘルストレムと組んで、「制裁」「死刑囚」ほかをはじめとした一味違う社会派ミステリを書いており、「三秒間の死角」では新たな境地の開拓を果たした。その実力は折り紙つき。
ちなみに、強面のヘルストレム氏は、自らも服役経験があり、刑事施設や更生施設の評論家でもあるという。特に、メッセージ性の強い「死刑囚」や、エンタメ要素を含んだ「三秒間の死角」では、彼の経験が余すところなくいかされ、物語を確固たるものにしている。
このコンビは不動と思っていたが、ルースルンドが今回タッグを組んだのは別の人物。どういう仕上がりなのかと実は少し不安に思いつつ読んだが、全く期待を裏切らなかった!
冒頭、この物語の中核となるエピソードが終わると、そこには、こんなメッセージが。
どうでもいいことかもしれない。が、これは事実に基づいた小説である。
そうなのだ。これは事実に基づいたフィクションであり、その事実とはルースルンドが今回パートナーに選んだトゥンベリの家族がかつて実際に起こした事件を元にしているのである。
本書は謎解きもないしエンタメ性も皆無。
言ってしまえば事実を元ネタにした犯罪小説に他ならない。しかも、読んでから、幾日も幾日も心にくすぶり続ける。
言ってしまえば事実を元ネタにした犯罪小説に他ならない。しかも、読んでから、幾日も幾日も心にくすぶり続ける。
「死刑囚」ほどではないが、読後感は良いとは言えない。だからこそ、「残る」。
それがルースルンド作品の良さなのだろう。
左がトゥンベリ、右がルースルンド
日常的に父親イヴァンの激しい暴力にさらされ、そのなかで育ったレオ、フェリックス、ヴィンセントの兄弟。主人公の役割を果たすのは長男のレオである。
前述の冒頭の物語の中核をなすエピソードは、イヴァンが息子達の前で母親をボコボコにするものだ。イヴァンは、セルビア系の移民で暴力的な人間だ。レオが喧嘩でやられたら殴り方を教え込む類の男で、タイトルの「熊と踊れ」(原題はBjorndansen「熊のダンス」)というのは、”喧嘩の、暴力の極意”のことなのである。
また、彼は、家族の結束を重んじてもいる。妻に暴力を振う一方、家族を愛していもいるのだ。(その実、イヴァンが息子たちに暴力をふるう描写は全く出てこない)
イヴァンの役割は、結局そのままレオに引き継がれる。レオはイヴァンとは違い、頭がよく忍耐力も備わっていた。ちゃんとした工務店の経営者で、精神的にも経済的にも、弟たちー フィリックスとヴァイントにとっては大黒柱的存在だ。
だが、レオは大胆な計画を目論んでいた。仲間は弟のフェリックスとヴィンセント、幼馴染で兵役経験のあるヤスペル、レオの恋人のアンネリーダ。
手始めに彼らは軍の基地から密かに大量の銃器を盗み出すことに成功する。そして、それらを用いてスウェーデン史上類をみない銀行強盗を計画する。
強力な武器で武装し、その使用も辞さないと思わせることができれば、警察も手は出せない。「熊のダンス」の原理だ。
もう一方の主人公を担うのは、彼らを追う刑事のヨン・ブロンクス。
ヨンもまた同様に”過剰な暴力”のなかに育ち、暴力に”囚われている”。彼は片時も暴力犯罪のフォルダを手放すことができない。
オフィスに泊まり込むのが常のある定年間近の警部のようになりたくはないし、自分は彼とは違うと思いつつ同じことをしている。
だからこそ連続して起きた現金輸送車襲撃と銀行強盗に、「過剰な暴力」の存在を感じとることができる。
目的を達成するためシスタム化されコントロールされた暴力だ。
目的を達成するためシスタム化されコントロールされた暴力だ。
銀行強盗をやめることができなくなるレオと、彼らを追うヨン…
二人の男はともすれば、逆の立場であっても全くおかしくない。
二人とも「過剰な暴力」のなかで育ち、形こそ違えど、その暴力の影に囚われている。
レオたちを追う、ヨン・ブロンクス刑事はモデルが実在しない架空のキャラクターであるというが、このヨンの存在が効いている。
当初は、頭脳派で何事にも慎重で周到な性格に見えたレオだが、次第に「強盗という行為に溺れ」依存症であることが明らかになっていく。
レオは「熊のダンス」に囚われている。コントロールしていると思っているものに実は支配されている。
レオは「熊のダンス」に囚われている。コントロールしていると思っているものに実は支配されている。
レオに対する読み手の見方は次第に180度変わっていくのだが、このあたりの描写力はさすが。
それにつけても考えてしまうのは、イヴァン自身はどうだったのだろうか?ということである。
よく「負の連鎖」というが、虐待されて育った子供は、自分の子供を虐待してしまうことが多いという。暴力もまた同様で、イヴァン自身もそうだったのではないか。
身内の、家族内の暴力であるがゆえに、他人から見えにくいその種の負の連鎖は、どうすれば、断ち切ることができるのか?
それとともに、父親と息子との濃密な関係性も印象深かった。
レオは本来なら母親にひどい暴力を振るった父親を憎み、拒絶してしかるべきなのに、結局、断ち切ることができない。理解できなくもないが納得はできない。
レオは本来なら母親にひどい暴力を振るった父親を憎み、拒絶してしかるべきなのに、結局、断ち切ることができない。理解できなくもないが納得はできない。
私は(一応)女性なので、男の子と父親の関係というものと、男性という性にとっての暴力については想像するしかない。
人それぞれであるにしても、週末の読書会では是非男性陣にきいてみたい。。
人それぞれであるにしても、週末の読書会では是非男性陣にきいてみたい。。
暗く重いなか、唯一慰めとなるのは、ヨンの上司のカールストレム警視正がかなりグルメであるということ。
何しろリヨンの三ツ星シェフ、ポール・ボキューズの料理本を愛読していて、週末にはトリュフとロブスター入りのラビオリを作るというのだ。
彼に限らず、レオたちが強盗成功を祝って抜くシャンパンも、ポン・ロジェにボランジェと、ラインナップがエレガント。いいなぁ、ボランジェ…!
これまでの小説には、こういった描写の記憶はないので、もしかしてトゥンベリがグルメなのかなぁ???
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