「レオナルド・ダ・ヴィンチ最後の謎 なぜ未完が多いのか?」講演会に行ってきた!Part 2

「最後の晩餐」は、彼が絵の修行をはじめてはや20〜25年レオナルド45歳の時の作品だ。

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この「最後の晩餐」もまた人気の題材で、フィレンツェには1480年代に様々な画家によって描かれた同じタイトルの絵が、11枚もあるという。
それらとレオナルドの絵は全く異なる。従来の絵が「まるで日本人のように穏やか」な表現をしているのに対し、レオナルドのものはキリストと使徒それぞれが異なる感情、異なる表情をしている。
 
また、彼の科学的探求のあらわれとして、「音の伝播」というものをもこの絵には表現されているという。
キリストのすぐそばの人が明らかな反応をしめしてる反面、離れている人は「え、何?」というふうにポカンとしているのだ。あたかも実況をしているかのごとく、その一瞬を捉えた絵に仕上がっている。
 
ただ、これにも面白エピソードがある。
絵の工程をみていたという著述家のマッテーオ・バンデッロの手記によれば、レオナルドはかなりムラ気のある人間だったようだ。1日没頭して描き続ける日もあれば、2〜3週間姿を見せないときもあったらしい。
 
彼は落ち着きのない性格で、日々きちんと着実に絵を仕上げるミケランジェロやラフェエロとは真逆だったそうだ。
 
「最後の晩餐」が壁画であるにもかかわらず、フラスコ画ではなく、テンペラ画だったのにも、そんなレオナルドの性格ゆえだという。
フラスコ画は漆喰を塗り、それが乾かないうちに水彩で直に絵をかかなくてはならないので、作業に綿密な計画が必要となる。しかもフラスコ画は書き直すことができない。
それがレオナルドにはできなかった。
教会の食堂という湿気の多い場所にテンペラ画で描かれた絵は、かなり早い段階から剥げ落ちてしまったようで、ヴァザーリは「拡がったシミ以外、何も見えない」と書いている。
 
 
フランス軍の進軍のためミラノを去りフィレンツェに戻ったレオナルドは、ヴェッキオ宮殿の壁画の依頼を受ける。
それが「アンギアーリの戦い」(未完)である。
ドラッツィオ氏の解説によれば、野蛮さをも含めた人間の強く激しい感情が描かれており、ここまで強い表現に挑んだ画家はいなかったとのこと。
 
ただし、これも未完。下絵の段階で放置されてしまったため、上からヴァザーリの手によって描かれているのだそうだ。
 
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またもや投げ出してしまった理由は、ずばり壁画だから。
 
そもそも、彼に壁画を依頼するというのが間違いなのではないか。
壁画にはフレスコ画という手法が不可欠なのだが、前述のようにその画法はレオナルドの性格には合わない(というか、できない。)
そこで、彼は新しい手法にトライしたのだが、それに失敗してしまった。
それで、レオナルドはこの壁画を「やめた!」と放棄してしまうのだ。
 
「こら、そんな簡単にやめるんじゃない!」とも言いたくなるが、実は逆側の壁は、かのミケランジェロが担当していた。
レオナルドとミケランジェロは嫌煙の仲だったので、顔を合わせたくないという気持ちもあったのだとか。
 
こうしてみると、レオナルドって結構なダメ男だったようだ。
 
↓ミケランジェロの「カッシーナの戦い」の下絵
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しかし、実はミケランジェロの「カッシーナの戦い」も未完に終わっている。
・・・おあいこだったね!(^∇^)
 
 
そんなレオナルドの最後の未完の絵が、かの「モナ・リザ」
1503年か4年、フィレンツェにいる時分から描き始め、死の直前まで筆を入れ続けた絵だ。
Mona_Lisa,_by_Leonardo_da_Vinci,_from_C2RMF_retouched 
 
これが未完?と思われる方も多いだろうが、赤外線透写でその下絵をみると明らかだという。
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もとは顔立ちももっとシャープで、口元もきつい表情だったことが伺える。
ちびちび描きたしているうちに、元絵とはかけ離れたものになっているのだ。
彼が生きて描きたし続けていたなら、「モナ・リザ」はもっと違う絵になっていたかもしれない。
 
オオトリを「モナ・リザ」で締めくくったところで、講演はお終い。
 
ドラッツィオさん、主催してくださった河出書房新社さん、ありがとうございました!意外なレオナルド像が明らかになり、非常に有意義な時間でした。
 

著作『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』には、他にも知られざるエピソードが書かれているそうだ。興味のある方は是非!

 
 

 

 

 

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