ガルシア=マルケスの「予告された殺人の記録」読書会に参加してきた。
マルケスといえば「百年の孤独 」。
こちらも久しぶりに再読してみたら、記憶にあるよりも何倍も面白くて危うく課題本を読みこそなうところだった。
ちなみに焼酎にも「百年の孤独」という名を冠したものがあるが、ネットでみたら高騰していて驚いてしまう。でも獺祭と同じで、宮崎の空港とかでみたら普通に売ってたりするんだろうなぁ。
もっともよく聞かれたのは、構成の上手さと表現についてだった。
*構成が緻密で最後の殺害シーンは鮮烈
*メタフィクション的
*文章に熱帯的装飾がなされ全体がぬるっとしている
*死体の描写が即物的
また、あたかも読者が闘牛の観客になっているかのように目を釘付けにされ、自らも引き回されてる感があるとの声もあった。
凄惨な事件を描いているにもかかわらず、文体がどこか熱帯的であるせいかどこかマイルドで不思議な雰囲気に包まれている。確かに日本で起きた事件ならもっと物語は陰鬱なイメージだったかも。
個人的によくわからなかった表現は、31ページ(新潮文庫)の、バヤルト・サン・ロマンを評す「ちょっと女っぽいところがあってね」「それが玉にキズだったわ。だってバターを塗って、さあ生でお召し上がりください、といわんばかりだったのよ」という箇所。
映画ではゲイを思わせる演出だったというから、やはり異質だったということを匂わせた表現なのかもしれない。普通は生ものはバターでは食べないものね。
この本とよく比較されるのがカポーティの「冷血 」を読まれている方も多かった。「冷血 」が殺人を犯した犯人は裁かれるのに対しこちらは無罪になっており、社会正義というものの価値観の差異が際立っている。
社会背景に着目された方も多かったようだ。
それに言及した意見としては、
*カソリック的社会儀礼に振り回されてるところが滑稽
*処女でなかった花嫁アンヘラ・ビカリオが名誉を回復したことに驚いた
*マチズム(男性優位性)の影響
殺人が行われる前日に司祭が船でやってくるのだが、盛大な準備をしたにもかかわらず彼は下船しなかったことで、祝福を得られなかったため不幸な殺人が起きてしまったのだと解釈される方もいらした。
解説には、異質分子(作中ではバヤルト・サン・ロマン)が入ることによる「共同体の崩壊」を描いているとあったが、実際の事件が起きた1950年当時はコロンビアは政治的にも非常に厳しい時期だったようだ。
田村さと子氏の「百年の孤独を歩く—ガルシア=マルケスとわたしの四半世紀」によれば、事件の舞台となったスクレの町は、「ビラに支配されていた」という。そのビラというのは、「誰それが誰それと不倫をしていた」というような隣人を密告するためのものだ。
作中では、サンティアゴ・ナサールの母親プラシダ・ネリロの元に誰かが封筒に入ったビラを差し込んだ(彼女は息子が殺されるまでその封筒の存在に気づかなかった)程度にとどまっているが、その実、かなりギスギスした雰囲気に包まれており、その鬱憤がアラブの血が混じっているサンティアゴ・ナサールに向かってしまった結果で、彼はその生贄とみることもできる。
またトサカだけ食べてあとは捨ててしまうような司祭に祝ってほしくないと言っていたアンヘラが、事件後「人生の意味を理解した」というのも宗教的といえる。
↓ 文庫版あとがきでも紹介されていたガルシア=マルケス特集が組まれていた雑誌「ユリイカ」の1988年8月版
翻訳家の方が持ってきてくださったのだが、本書の面白さは、ビカリオ兄弟が名誉のためにサンティアゴ・ナサールを殺さねばならないという「誰もが知っている殺人」を、実はビカリオ兄弟自身もやりたくはなく、皆がそれを止めようとしたにかかわらず、偶然がいくつも重なったことによって起こってしまったという「進捗と抵抗」にあると指摘されているそうだ。
私自身はこの小説を通じて最も感じたのは、この「偶然のつながり」というものの存在だった。偶然はフィクションでは禁じ手だ。偶然の多すぎる物語はそれだけでフィクションとしては落第の印を押されてしまう。特にミステリーでは許されない。
が、この物語は事実に即したノンフィクション・ノベルだということで、偶然の連なりは現実ではないという反論を寄せ付けない。深読みをするならば、リアリズムと偶然が相反するとされていることへの皮肉のようにも感じてしまった。
4章にあたるp104でも、事件から時を経てアンヘラの住まう地域まで赴いたガルシア・マルケスは「あまりにも三文小説的な最後を認めたくなかった」といっている。
得てして「ありえないはずのこと」はしばしば起こりうるし、三文小説のようなことはもっとあると最近つくづく思う。
だからかな?最近はフィクションよりノンフィクションのほうが面白く感じてしまう…
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