羊飼いの暮らし 〜イギリス湖水地方の四季 / ジェイムズ・リーバンクス

いいなぁ、湖水地方・・・
 
今年はヨーロッパ方面には行けそうにないので、旅行気分が味わえればいいなぁと思い購入したのだが、想像したよりも遥かに含蓄に富んだ内容の本だった。
 
私を含め、日本人がイギリスの湖水地方に描くイメージは、ビクトリアス・ポターの「ピーターラビット」だろうか、それともワーズワースの詩だろうか。
 
 
この地で代々「羊飼い」を営んできた著者リーバンクスは、初っ端、観光客が抱く湖水地方のそのイメージを否定する。その実、湖水地方は1年のうちたった4ヶ月を除いては、寒く、湿っているという厳しい環境にあるのだ。
 
そして著者のいう「羊飼い」とは昔ながらの正真正銘の「羊飼い」のことなのである。羊を放牧して育て、主に食肉として売りそれで生計を立てる。
羊毛は、機能的で安価な人工繊維がある今では、あまりに安価に取引されるのだという。
 

 

 
タイトルの通り、湖水地方の四季それぞれの「羊飼いの仕事」が語られているのだが、物語のメインは、彼の祖父の話だ。本書は祖父、父、そして自分自身の3代の家族の物語であるが語られているのは単なる家族の物語ではない。
 
この物語の根底には、大きく二つのことが描かれている。ひとつは、本当の湖水地方のことであり、もうひとつは知的とは一体何をさしていうのだろうか、ということなのである。
 
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ワースワーズの詩やガイドブックの中の美しく牧歌的な湖水地方の魅力は、著者曰く、「旅先でのつかの間の恋」のようなものだという。
ちょっと古いけれども「リゾラバ」というやつか。

それにひきかえ、彼の家族のような湖水地方に生きる羊飼いたちと湖水地方との関係は、「長期にわたるタフな結婚生活」だという。

 
自分の生活する土地、湖水地方が、世界中の観光客に愛されているのを知ることは、著者にとって非常に奇妙なことだったそうだ。

なぜなら人々に愛されている世界の中には、「土着の住民であるはずの自分たちは存在せず、「自分たちはその場所に付随する物語や意味の一部ではない」と感じたからだという。
このことが本書が執筆されることになった原点だ。

また「羊飼い」と聞くと、我々都市生活者は「現代から取り残された愚かな人々」というイメージを抱きがちだ。著者自身が中学校に通うようになったときも、教師たちにとっての「羊飼い」とは透明人間かよくても貧乏白人すぎなかったという。
 
確かに羊を飼育してもたいした金にはならないし、農場経営の傍ら副業を持たなければ生計も成り立たない。しかし、著者は祖父や父、その他多くの「羊飼い」の逸話でそれを覆していく。

曰く、彼らは「手っ取り早い利益」よりも、「誠実な人間としての名声や評判」を重視しているだけなのだ。

また、彼の父は一般的なスペルすらおぼつかない反面、土地についての知識は百科辞典並みだったりするという。
誰が知的かなどという考えは、じつに馬鹿げたものではないかと著者は本書で問うのだ
 
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効率や利益よりも誠実さを重んじるという彼らの生き方は、読者自身への反省を促し、視野を広げてくれる。
このことは、何年か前、「極北」マルセル・セロー氏の来日講演があって行ったのだが、そのときのことを思いださせた。
そのとき、セロー氏は「極北」を書くきっかけとなったエピソードを披露してくれたのだが、それは、汚染されたチェリノブイリに住む一人の老婆の物語だった。

セローが感銘を受けたのは、彼女の「生き抜く力」だったが、この「湖水地方の羊飼いの暮らし」にも何か同じような尊さを感じられる。
チェルノブイリの老婆の生活も、農場の生活も、どちらも決して「綺麗事」ではないがそれこそが人間の真実なのかもしれない。
 
また、読んですぐにわかるが、リーバンクスのこの文章は、じつに知的で、詩的でかつ機能的だ。彼は祖父や父同様、10代で学校を中退し「羊飼い」となったがオックスフォード大学に学んだという経歴の持ち主だ。そして、卒業後また湖水地方に戻ってきて「羊飼い」として暮らしている
 
著者を魅了してやまない湖水地方とそこの「羊飼い」の魅力は、都市で育ち生活してきた私にはもう得られないものなのかもしれない。
自分が農場の生産物なしには生きていけないにもかかわらず、私はそこにつきものの血や汚物も怖いし、放農のなんたるかさえ理解できないのだ。
 
自分の仕事に対する誇りや土地に対する愛情は、正直とても羨ましい。
 
 
 
 

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