人は不死と幸福を目指して”神”にアップグレードする?「ホモ・デウス 〜テクノロジーとサピエンスの未来」

「サピエンス全史」の著者ユアン・ノア・ハラリの新作。本作ではサピエンスの未来について予測している。

 

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来
ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来

神へのアップグレードとは何か?
それは不死と至福の追求に他ならない。
特に不死に関しては、グーグル等に代表されるグローバル企業でもすでに今現在真剣な取り組みもなされている。

「寿命1000年」の著者で老年学者デグレイらによれば、2050年の時点ではほぼ10年ごとに修復治療のみならず、脳や手足等のアップグレードで寿命を先延ばしすることに成功しているだろうという。
いうまでもなくテクノロジーの恩恵だ。だが、長生きすることは必ずしも幸福ではない。長寿でも寝たきり生活では幸福ではないし、もし不自由なく動けたとしても鬱ならば幸福ではない。
では、その幸福感をも操作することができるとしたらどうだろうか。今日でさえ人々は老いも若きも様々な向精神薬や抗鬱剤に頼っているが、それがその場しのぎな投薬でなく、脳そのもののアップグレードによって、幸福度の高い水準の精神の安定がもたらされるとしたらどうだろうか。

ただし、これらのアップグレードは十分な資金がある人に限られる。

世界が急激に”平等に不平等”に向かっている中において、私も含め大半の人にとってこれは恐ろしい事態だとも言える。
アップグレードするお金のある人は、旧来のサピエンスとは全く違う「ホモ・デウス」になるからだ。彼らは美しく、賢く、病気にも強く永遠にメンテナンスし続ける限り若さも命も続く。
体も脳もその思考方法さえもアップグレードした「ホモ・デウス」は、私たちサピエンスとは何もかもが全く別種のものだ。
種そのものが違うのだから価値観も違うだろう。私たちが涙し感動する文学や演劇、絵画を必ずしも彼らにとってそうではないし、滑稽なだけなのかもしれない。
彼らが誕生した時、我々サピエンスがどう扱われるかについては、人間(サピエンス)が、チンパンジーやゴリラをどう扱っているかを考えればよいと著者はいう。

想像するだに恐ろしが、本書はディストピアの未来について脅す本ではない。
再三にわたって著者が述べているように、未来を予想することでその予想を外そうという逆説的な試みが本書の趣旨なのだ。

どういうことかというと、一旦それについて思いを巡らせることで私たちはそれ以外の選択肢についても考え始めるからに他ならない。
19世紀半ばマルクスは、労働者階級と資本家の争いは激化し、必然的に前者が後者を倒し資本主義は崩壊すると述べたが、その予測は意に反し外れた。
予測が外れたのは資本主義者たちもマルクスの著書を読み、その分析を活かして行動を変えることで警戒したからだ。
規模は小さいが、この種のことは特定の株価においても度々起こる。
 

個人的に面白いと思ったのは、下巻部分の「自己」というものについての真実だ。
私たちは、自分のことを「私は私だけ」で「唯一無二の自己」だと思いがちだが、それは事実ではない。私たちの中には、少なくとも二人の自己がいるのだ。
それは「経験する自己」と「物語る自己」だ
「経験する自己」とはその時々に感じる、いわば刹那的な自己だという。例えば、冷たい水に手をつけて耐えている時、冷たくて不快だと感じる自己のことだ。
他方「物語る自己」とは、すべてが終わった時に記憶を検索して物語を紡ぐ自己だという。
「経験する自己」と「物語る自己」は別物なのだ。
そして、「経験する自己」は記憶力が悪くて何も覚えておらず、「物語る自己」はある出来事のピークアウトのことしか覚えておらず、自分が納得するための物語を紡ぎ出す。「あの時はああだった」と後々語り、判断を下すのは「物語る自己」のほうだ。
私たちの自己は「物語る自己」が紡いだ都合のいいフィクションなのだ。
ちょっとカズオ・イシグロを思い出した。彼はこの種の「記憶の曖昧さ」を好んでテーマにしているが、科学的にもそれは立証されているというわけだ。

このエピソードは、国家や神や貨幣と同様に、”自己もまた単なるフィクションである”という恐ろしい結論を導き出す。
私やあなたといった自己は、各々の生化学的アルゴリズムの集合によってでっちあげられたフィクションに過ぎない

もしも自分の意思(自己)がアルゴリズムの産物に過ぎないのであれば、生身の人間は、非生物であるAIと何が違うのだろうか?
むしろ正確な記憶ができない分、超劣化版アルゴリズムではないか。

著者は「ホモ・デウス」は、意識を持たない高性能のアルゴリズムに引けをとらないほどアップグレードされた心身の能力を享受するだろうという。
それは、第二の認知革命さえ引き起こし、想像もつかない領域へ広がっていく可能性があるともいう。その領域が生物が棲息不能な銀河であるならば、もはや生物でいる必要性もない。

人間至上主義(ヒューマニズム)が追い求める結果として、テクノロジーがもたらすであろう人間の不死と至福は、逆説的に人間の終末もたらすのかもしれない。

この予測が外れるといいなぁと思う反面、怖いものみたさもある。
それに、第二の認知革命が必ずしも悪いことだとは限らない。ただ、それまで生きていられるのかしらん…?

 

  

 

  

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。