21世紀の貨幣論 / フェリックス・マーティン

文学部の出身なので経済学については門外漢だ。
ある資格取得のため少しかじったことがある程度で、その時も「経済学」は理論をグラフや数式で表したもので、経済というよりも数学的な印象が強い。
時は経ち2008年から起こったリーマンショックの嵐が吹き荒れた。株価はごく最近まで長期にわたって低迷。「結局、経済学って何の役にも立っていないんじゃないか」と思ったものだった。えらそうな人たち、何やってたの?

後付けで「いずれ破綻すると思ってた」などとしたり顔で言う人もいるにはいたが、そんなのは犬だってできる。
英国のエリザベス女王も我々下々の者と同様の疑問をもたれたらしい。
なぜ、誰も危機が来ることを予見できなかったのでしょうか?

ここで、誰しもが密かに思っていた疑問がクローズアップされた。それは、「経済学はそもそも正しいのか?」ということだ。机上の数式的経済学と、現実社会のファイナンスが乖離していることについては、もはや言い訳のの余地がない。

本書の著者は、その正統派経済学の出発点たるマネーに光を当てる。
我々はもしかして「マネー」を見誤っているのではないか。

冒頭に捧げられているのは、A・H・クイギンの辛辣な言葉だ。

マネーが何であるかは、経済学者を除けば、だれでも知っているし、経済学者でさえ、一章くらいはマネーについて述べることができる

マネーが誕生して6,000年、著者はその歴史を紐解きつつ独自の貨幣論を展開していく。その中心が著者の母国になるのは仕方ないだろう。

そもそもの始まりはミクロネシアに浮かぶ小さな島ヤップ島だ。ここで取引されている商品は、魚、ヤシの実、ナマコの三つのみ。だが、物々交換で事足りると思われたこの島には実はマネーが存在していた。
しかし、このヤップ島の石貨、フェイは馬鹿でかい石だったので、持ち運びは不可能だ。
石貨の持ち主はそれを所持していなくても、そこにあるという根拠に基づいて取引されていた。ヤップ島のフェイは、マネーそのものではなく信用取引、清算システムだったのだ。

フェイの存在は、これまでのマネー論の常識を覆す。
つまり、貨幣は物々交換から発展した「交換の手段としてのモノ」であるという仮説である。
我々はマネーとは今ここにある1万円札や硬貨といったモノであると信じ込んでいるが、その貨幣論は間違っていると著者はいう。
実際は、決済をするシステムこそが、マネーなのだ。つまり、マネーとは貨幣というモノではなく、社会技術だという。

そして、資本主義社会の未来について我々に問いかける。
資本主義以外の体制がもたらした悲劇はおさらいの必要すらない。

今や、世の中では金を蓄積する能力で社会的地位が決まる。

お金があれば女性にもモテるし、毎日星付きのレストランで美味しいものを食べることもでき、最先端の医療も受けられる。命にも対価は存在する。
カリフォルニアでは、お金次第で刑務所の独房のランクさえ上げることができるという。

資本主義の発達に伴い、何にでもお金に換算して考えることは普遍的となり、次第にそれに支配されるようになった。
これは昔から存在していた問題だというが、今のこの時代ほど問題を痛感させる時代もない。

しかし、それで本当に良いのだろうか?本来、マネーの支配者は誰であるべきなのか?それが本書の趣旨である。

「視点を変えれば、モノの見え方ががらりと変わる」著者はこう言い、それが我々読者一人一人にも起こるよう切望する。そして、マネーの改革は誰が行わなければならないのかを問う。

思想としては大変素晴らしい。だが、実際問題としてマネーの呪縛は手強い。人の欲望は侮り難いものがある。

 

Spenth@: 読書と旅行、食べることが好き。