翻訳者、故東江一紀さんのエンタメの代表作がウィンズロウならば、ノンフィクションはマイケル・ルイスだ。
本書は東江さん最後の作品で、道半ばにして他界されてしまったために、お弟子さんである渡会さんがそれを引き継ぎ出版に至ったという。
つい先日「ストリート・キッズ 」の読書会をしたばかりなので、なんだか感慨深い。
マイケル・ルイスを手にとる人の多くは、少なからず経済に興味がある人だろうか。私もごくごくささやかに株をやっている。
そういう読者は、金融システムのあまりの不透明さに腹を立てているが、同時にそれに徐々にと慣れてしまってもいる。
強欲に資本主義を驀進してきた結果、世の中にはもう平等とか公平とかいうものは存在しなくなってしまった。
さて、タイトルのフラッシュ・ボーイズとは何ぞや。
それは“超高速トレーダー”のことだ。
その昔、株は証券取引所で、株仲買人が派手なゼスチャーで行っていた取引は、今はコンピューターが担っている。電子取引というやつだ。
しかし、この電子取引は、取引ボタンをクリックしてから取引所に届くまでのスピードに差異があるのだ。
当然、速いほうが得をする。先回りできるからだ。
人体に可能な最速の動作は瞬きだと言われている。わずか1ミリ秒の世界だが、この電子取引の世界において重要になるのは、それこそ10億分の1秒、ナノ秒というスピード差である。そして、その間に何かが、いや全てが起こる。
その瞬きよりも遥かに短い隙をついて、一般の投資家よりもミリ秒、マイクロ秒というスピードで勝る超高速トレーダーは先回りし、”さや取り”をする。
我々の資金は全くそうと知られずにかすめ取られている。
その上彼らにはリスクを負わない。
本書の解説を書いている『FACTA』発行人阿部氏は、超高速トレーダーを勝率100%のじゃんけんロボットに喩えている。
このロボットが絶対負けないのは、相手である人間が何を出すのかがわかっているからだ。
同様に超高速トレーダーは売買が成立する前に、注文情報を入手し有利な条件で自己売買することで利益を得る。(日本ではこの手法は禁止されているが)
この”さや取り”には共犯者がいる。それは取引所だ。
ナノ秒を争う超高速トレーダーたちは、ほんの数センチのケーブルの長さだって短縮したい。だから、取引所は自分のところのデータセンターのすぐそばに、有償でサーバーを設置させる商売をしているのだという。
アメリカの証券市場には、スピードを基盤として持つ者と持たざる者の階級構造ができあがっているのだ。まさにアメリカ的資本主義の縮図ではないか。
この状況に奮然と立ち上がったのが、ウォール街では二軍扱いされていたカナダロイヤル銀行のブラッド・カツヤマだった。
彼は、顧客からの注文で株を買おうとすると、その直前まで画面に表示されていた売り物がふっと消えてしまうという現象が頻繁に起こることを怪しんでいた。そして結局当初より高い価格で購入させられてしまうのだ。
一度や二度ならシステムの不具合で通るが、その現象はそういうことで片付けられる範疇を超えて起こっていた。調査をはじめたブラッドは、すぐに誰かが先回りして自分たちの利益をかすめとっていることに気づく。
そこから、ブラッドたちと超高速トレーダー及び金融システムとの闘いが始まる。
一人、また一人とブラッドに仲間が増えていく様子は、水滸伝のようでわくわくさせられる。
ブラッドの物語がメインストーリーなら、サイドストーリーはどれだけスピードを速められるかに協力する技術屋の物語だ。
ロシア人技術者たちは、元々は金融ではなく、通信や物理、医学や数学といった有益な分野の出身だった。分析的思考を持つロシア人たちは、ウォール街の投資銀行によって超高速トレーダーたちのツールに変えられてしまっていたのだ。そして、時にどうしようもない悲劇が生まれる。
これが対岸の火事ならば、「アメリカって大変だね」で済むが、この超高速トレーダーは日本にも上陸しているらしい。
もちろん、取引所もグル。幸いというかなんと言うかまだ”黒目”の超高速トレーダーはいないらしいが、時間の問題だろう。
待って、さっきの「先回りして利益を得る」というのは日本では禁止されているはずじゃないの?日本では超高速トレーダーは仕事できないいんじゃないの?と思われるだろう。
しかし、彼らの手口にはヴァージョン2があるという。
システムに予めアルゴリズムを仕込むことで、仲介業者のもたつきを予測し、マイクロ秒の隙をついて先回りをする。このアルゴリズムに創意があると見なされれば、今のところこれを規制する法律はないという。
ブラッドたちの冒険譚には溜飲が下がるし、人間の良心というものを一瞬であっても信じさせてくれる。
しかしながら、強欲は良心をはるかに上回る。
他人よりナノ秒先んじることができるのなら、自分のおばあちゃんだって売り渡す輩がいるのもまた事実だ。
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