忘れられた巨人 / カズオ・イシグロ

週末も近づき、なんとか『忘れられた巨人』を読み終える。
どなたかが以前、「市原悦子の朗読がぴったり」だとおっしゃっていたが、読んで納得。確かに冒頭はちょっとダークな日本昔話的雰囲気もある。

イシグロのチャレンジとその才能には毎回驚くばかりだが、なんと今回はファンタジー。
下敷きになっているのは”アーサー王伝説”。魔術師マーリンの魔法や呪い、ドラゴンが息づく時代が舞台。表現を敢えて平易にしていることで、逆に超自然的世界に馴染んでもいる。

だが、SFであれファンタジーであれ、彼のテーマは一貫して「記憶」というものにある。

 

時代はアーサー王亡き後のブリテン島だ。
主人公は、ブリテン人のアクセルとベアトリスの老夫婦。アクセルはベアトリスを「お姫様」と呼ぶほどで、二人は互いに深く愛し合っている。

ところが、老夫婦は最近、一日前の出来事でさえ覚えていないことに気づく。
それどころか、自分たちが昔どうだったのかさえ思い出せない。
しかし、それは老夫婦に限ったことではなく彼ら以外の村人やサクソン人の村でさえ状況は同じらしい。
人々にとって過去とは、次第に薄れていき、沼地を覆う濃い霧のようなものだ。国中が健忘の霧に覆われていた。

そんなわけで、なぜ旅にでることになったのかわからないが、老夫婦は息子の住む村に旅することになった。
しかし、二人は肝心の息子のことも思い出すことができないのだ。

旅に出てまもなく、二人はウィスタンという戦士と、エドウィンという少年に出会う。悪鬼にさらわれたエドウィン少年をウィスタンが救い出したのだという。

だが、エドウィンはすでに悪鬼に噛まれてしまっていた。命の保証はない。それを案じたウィスタンはエドウィンを老夫婦に託そうと考えた。

そして、ウィスタン自身もブリテン人領主に命を狙われていたことから、4人は道中を共にすることになるのだが・・・

 

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イシグロがこの物語の着想を得たのは、ニューヨークとワシントンで同時多発テロが起こった直後だったという。
その言葉を裏付けるかのように、読み進めるうちに”ポスト9.11″にみられる世界の構図が浮かび上がってくる

本書は「アーサー王伝説」が下敷きになっているが、もっと厳密にいうなら、14世紀の詩「ガウェイン卿と緑の騎士」であり、アーサー王の甥であるガウェイン卿は作中重要な人物として登場してもいる。

アーサー王はサクソン人を撃退した英雄として語り継がれているが、人々はサクソン人からみた側のことを忘れがちだ。
本書にでてくるウィストンも、サクソン人でありながらブリテン人の中で疎外されつつ育ったという特殊な境遇にある。
そして、ブリテン人によるサクソン人の大虐殺を忘れられずにいる。その心情はまるで今のホームグロウンテロの犯人に重なる。

繰り返されるイスラムのテロとそれに対する報復…それをやめるにはどうすればいいのか。私たちはどう進むべきなのだろうか。

血の報復を避けるため、アーサー王は「忘却」の呪いを用いたが、我々も、戦争もテロもなかったこととして全てを忘れてしまうべきなのだろうか…

「忘却」は、過去に囚われず前を向いて進むために必要な能力だ。
人間の脳は元来そういう風にできているそうで、嫌な思い出は忘れ、自分にとって都合のよいように改竄する傾向にあるという。

よく、明らかに非のある被告が無実を主張することがあるが、それは窮地に陥った脳が記憶の改竄をしていることも多いという。そうやって自分を守っているのだし、そういう人たちにとっては ”本当に”無実なのだ。
そういうことをとめどもなく考えてしまう。

同時に、本書をアクセルとベアトリスの”ラブスストーリー”として読んだ人もいるだろう。
私もそれを否定しないが、私はどちらかといえば「人生をどう生きるべきなのか」という物語として読んだだろうか。
老夫婦は確かに互いに深く愛し合っていると信じている。
しかしベアトリスは思うのだ。分かち合ってきた過去を思い出せないのに、どうやって夫婦の愛を証明すればいいのだろうかと。
過去の一切をなくしてしまっても、互いへの愛情は変わらないものなのだろうか。

国中を覆う「忘却」の霧が覆い隠しているのは、はよい記憶だけでない。事実、悪い記憶を葬っているからこそブリテン島は平和なのだとも言える。
そのことを指摘されたベアトリスはこういう。

「悪い記憶も取り戻します。仮にそれで泣いたり、怒りで身が震えてもです。それが人生を分かち合うということではないでしょうか。」

知らぬが仏というが、忘れてしまったほうが楽なことも多い。辛い現実を受け入れるのは確固たる強さが求められる。
その時、自分ならどうだろうか。
“忘れられた巨人”を呼び起こしたいだろうか。

 

 

 

 

 

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