わたしを離さないで/ カズオ・イシグロ

村上春樹は同世代の作家であるカズオ・イシグロについて、「雑文集の中で、このようなことを語っていた。

イシグロの小説の優れた点は、一冊一冊がそれぞれに異なった成り立ち方をして、それぞれ異なった方向を向いてるところにある。
構成も文体もそれぞれの作品ことに意図的に区別されているにもかかわらず、それぞれの作品には確実にイシグロという作家の刻印が色濃く押され、ひとつひとつが独自の小宇宙を構成している。
それぞれに魅力的ですばらしい小宇宙だ。そしてそれら個別の小宇宙が(読者の頭の中で)ひとつに集められると、カズオ・イシグロという小説家の総合的な宇宙がまざまざと浮かび上がってくる。彼の作品はクロノロジカルに直線的に存在しているのと同時に、水平的に同時的に結びついて存在しているのだ。

ああ、その通りなのだ。いつも違うのにでもそれは間違いなくイシグロだ。

そんなイシグロの小宇宙を再度覗いてみたくなって『わたしを離さないで』を再読してみた。3月に日本でも映画公開になっていて、再び静かにブームとなっているイシグロの代表作でもある。

  

折しも著者本人も10年ぶりの来日とあって、最近NHKでも「カズオイシグロを探して」というドキュメンタリーも放送されたばかりだ。

 

映画は恋愛部分に焦点をあてて製作されたせいか、青春のストーリーとして紹介しているサイトもあるが、原作はそういう感じではない。

主人公はキャシー・Hという女性。
物語は、彼女の子供時代の回想シーンから静かにはじまる。彼女は10年以上にも渡る長い介護人生活を終え、次の段階に歩みだそうとしている。

子供時代、キャシーたちは寄宿学校のようなヘールシャムに暮らしていた。なぜなら、彼女たちは「特別」だったからだ。先生は、キャシーたちに「あなたたちは、教わっているようで何も教えられていない」と悲しげに言ったが、ヘールシャムの子供たちの運命は、生まれた時から決められている。“普通の子供”なら誰にでもある”将来の夢”は、彼らにとって無益なものでしかないのだ。

やがて成長したキャシーは、ささやかな希望を打ち砕かれ、ヘールシャムも、友人も、何もかもを失うことになる・・・

イシグロが描いたのは、「定められた運命を受け入れて生きる」ということだ。
5年前にこの『わたしを離さないで』を読んだときは、キャシーたちはあまりにも自分の運命に対し消極的すぎるのではないかと感じたのだが、実はそうではないのかもしれない。

友を、ヘールシャムをなくしても、彼女の中の「なくしたものの行き着く場所」には、それはいつでも存在している。記憶として。
彼女が、私から離れていかないでと願った、誰にも奪えない何かとは結局は自分の中だけの世界だ。それは記憶で、記憶はキャシーの願い通りに塗り替えることができる。たとえ真実ではなくても。
ヘーシャムの生活は、本当に恵まれた幸福なものだったのかも、実のところはわからない。でも、それは誰にも奪うことのできないキャシーだけのものである。

ところで、epi版で訳者は「老い衰えたエミリ先生は、もし必要に迫られたらキャシーを使うのだろうか」と疑問を呈している。
かつての校長であり、幸福な子供時代を与えるという大きな役割を担ったと自負しているエミリ先生は、ささやかな慈悲を請いに目の前に現れたキャシーを「使える」のかだろうか?
私はむしろエミリ先生だからこそ、使うだろうと思う。

乙武氏が「手足のない僕の気持ちは誰にもわからない」とつぶやいたように、誰しも他人になりかわることはできないし、その人に共感できても、完全に理解することはできない。
ましてや、エミリ先生は、そもそもキャシーたちとは違った。キャシーたちと自分が根本から”違うのだ”と一番認識していたのは、エミリ先生自身でもあった。
自分が、自分の配偶者や子供が、それによって助かる可能性があるのなら、その助けとなる提供物がどこからくるのものかということには、目をそらすことができるだろう。
そのことに、”キャシーはきっと満足してくれる”とさえ思い込むのではないだろうか。

 

 

 

Spenth@: 読書と旅行、食べることが好き。