禁忌 / フェルディナン・フォン・シーラッハ

今の話題はなんといってもドイツの旅客機墜落だろうか。
ルフトハンザ系のLCCが、フランス南東部で墜落し、日本人二人を含む乗客乗員150名が犠牲になった。回収したボイスコーダーの分析では、ドイツ人副操縦士が「意図的に飛行機を墜落させた可能性」が疑われているという。副操縦士には精神科の通院歴があり、自殺を目論んだとも言われているが、どういう事情があったにせよ、巻き沿いになった乗客乗務員やその家族はたまったものではない。
ちょうど本書を読んでいた時に起きた事故だった。

本書は著者自身が「善悪を問うことの無意味さ」と「拙速な刑事手続きがもたらす破局」を描いていると言うが、この事故のことを思いながら読むこととなった。

主人公は、セバスティアン・フォン・エッシュブルク。
フォンのつく名が示すように古い名家の生まれで、長じて写真家になった男だ。

物語は、セバスティアンの幼少期から始まる。落ちぶれた名家に生まれた彼はすぐれた色彩感覚の持ち主だった。
あることがきっかけで若くして写真家として成功し先鋭的な作品を次々と生み出すが、一転、ある事件の被疑者として緊急逮捕されてしまう。
女性を誘拐殺害した疑いがかけられたのだ。

窮地に立たされたエッシュブルクの弁護を引き受けることになったのは、敏腕弁護士のビーグラーだった。

果たして彼の裁判の行方は…?
エッシュブルクは本当に罪を犯したのか?

訳者のあとがきでも触れられているように、本書の装丁には作為的な写真が使用されている。右から光が当てられた女性の写真だが、なんだか妙だし誰かに似ている気がするのだ。
訳者のいうように、光のあたった部分を手で隠してみると…

このMichael Mannの写真はシーラッハが自らドイツ版の本書の装丁に使用するよう指定したものらしい。このエピソードから伺えるように、今回の作品には特に熱が入っているようで構成も凝りに凝っている。

セバスティアンの写真家という職業にちなんでか、物語は光を構成する三原色、緑、赤、青という色の名のついた章立てによって構成されているのだ。そして、物語はその三色が完全に混ざり合うことで生まれる「白」で締めくくられる。

最初の「緑」にはシーラッハらしさというべきものが全て備わっていて読み応えがある。これ以上ないほどに簡潔な文体。それを重ねていくことによって生まれる独特の雰囲気。その描写はモノクロームの写真を連続で見せられているような気分にさせられる。セバスティアンの生い立ちが淡々と語られるのだが、これが読み手を不穏にさせる。

続く「赤」では彼は被疑者として逮捕される。そして物語後半、最後の最後での一撃必殺。これぞシーラッハの本領だろう。

フォンのつく名字という出自、複雑な生い立ちのセバスティアンは、シーラッハ本人の生い立ちをつい連想してしまうが、それ以上に、著者を強く感じさせるのは弁護士のビーグラーかもしれない。
自然嫌いの彼の第一印象はあまりよろしくはない。だがすぐに全く違う印象を抱くようになる。奥さんに頭があがらない様子や、嫌いな犬に好かれるシーンなどはコミカルですらある。

また、本書の巻末には日本語版限定で「日本の皆さんへ」という著者からのメッセージが収められている。
ここで引用されている良寛の句、「うらを見せおもてを見せて散る紅葉」で、人間の真実についての悟りを語っている。

本書の見所はいわずもがな、エッシュブルクの真実であるが、ビーグラーの真実もまた違った意味で楽しめるのではないか。

人は誰しも多面的であり、色々な色彩を持ち合わせてもいる。そこから「善悪」を切り取りそのどちらかを問うことは無意味だ。エッシュブルクの”作品”を通して間接的に、また巻末の「日本の皆さんへ」では直接にこう問いかけている。

これには賛否あるだろうし、私自身もよくわからないとしか言いようがない。ただ、理解できるのは、モラルと法は異なるものだし、真実と現実も必ずしも同じものではないということくらいか。

訳者曰く「本書は著者の自画像である」とのことだが、本書はまた著者自身の心の揺蕩いも感じられる作品だとも思う。

ドイツ旅客機の副操縦士の近所の人々は皆、「彼はそんなことするような人に見えなかった」と口を揃えた。
しかし、彼自身の真実はどうであれ、現実には彼は大勢の人々の命を犠牲にしてしまった。人々に焼き付けられるのは常に現実のほうである。

 

Spenth@: 読書と旅行、食べることが好き。