甘美なる作戦 / イアン・マキューアン

物語の舞台は60年代後半東西冷戦の真っただ中のイギリス。

MI5は出てくるし、主人公はそこに勤務もしているが、女スパイというのはなんだか違う気がする。ただ若く、恋をし、その気持に振り回された女の子の物語というほうがふさわしい。

主人公の名は、セリーナ・ブルーム。
昔から小説を読むのが好きだったが、彼女が小説に求めていたのは、「結婚してください」という結末だった。つまりはそういう女の子だ。

母親の強いすすめでケンブリッジの数学科に進学するが、案の定落ちこぼれ、彼女なりの青春を謳歌する。
そんなセリーナのボーイフレンドで、歴史の教授だったのがトニー・キャニングだった。彼は54歳、彼女からすれば”年寄り”だったが、彼女は彼の深い教養や知性、優雅さ、別荘で披露されるイタリア料理に魅了される。
トニーはまさに紳士的な愛人だったが、それはひと夏の間だけのものだった。

彼らは酷い別れ方をするが、彼女は彼がお膳立てしてくれたMI5の面接を受け、M下級職員補として働きはじめる。
セリーナの仕事は灰色の建物の中での事務アシスタント、給料も低い。だが、彼女は前に歩みだす。
そして、「スイート・トゥース作戦」に携わるチャンスがめぐってくる。

外務省の情報調査局IRDは、昔から作家や新聞社や出版社を育成してきた。
ジョージ・オーウェルの本を世界18カ国に翻訳されるのを援助したのもIRDだが、こうした遠回しなプロパガンダは昔から諜報機関の十八番なのだ。

MI5は独自のプロジェクトを欲しており、若く有望な小説家にそれと知られずに支援したいと考えていた。その交渉役としてセリーナに白羽の矢が立てられる。

彼女の担当はトマス・ヘイリーという作家だったが、彼女はその作品はもちろん彼本人に魅了されてしまう。二人は愛し合うようになるが・・・

マキューアンは、

すべての小説はスパイ小説であり、またすべての作家はスパイである

といっているが、本書はそれを立証するかのような小説である。
敵を欺くために別の人間になっているスパイは、時に自分が誰かわからなくなるこもある。作家も同じだが、これは読んでいる読者とて同じだったりもする。

さらに困惑させるのが、マキューアンがメタの名手であることなのだ。
この巧妙さ。そしてそれがもたらす効果ときたら…

また、作中には作家であるトムの短編(あらすじのみだが)が随所に盛り込まれている。
双子の弟の牧師のかわりに見事な説教をした無神論者の兄が、その説教に感激した女に付きまとわれ、何もかもを失ってしまう話や、デパートのウインドゥに飾られていたマネキンに恋をした男が、金にあかせてそのマネキンを自宅に連れ帰り猛烈に愛するのだが、彼女の心変わりを疑いズタズタにする話などである。
これらがまた面白いだけでなく、全体の物語と共通するものを含んでいる。

私が印象に残ったのは、セリーナの恋の甘やかさだ。ただ、セリーナ自身の恋の物語は、彼女が好きだった小説のように、「結婚してください」で終わる結末とはならなかったが。


金髪で冴えた青空色の瞳の彼女は、誰がみても美人で、その美人としての特権を行使しながら、ふわふわと生きていけばいいはずだった。羽(フルーム)と同じ韻を踏んでいる名のように。
それなのに男たちは、セリーナを捨てたり死んでしまったり、挙げ句・・・
その全てが舌に苦さの残るものになるが、だからこそ、それらは甘やかで美しい。

原題は「Sweet Tooth」、甘いものを好む傾向、すなわち甘党。
これは作中セリーナがかかわった作戦名であると同時に、彼女自身を表わす。

女は、大切にとっておいたあめ玉のように、時おり過去の思い出を楽しむものだ。彼女が今、最も懐かしく思い出すのは、誰とのことだろう。

 

 

 

 

Spenth@: 読書と旅行、食べることが好き。