暗いブティック通り / パトリック・モディアノ

『暗いブティック通り』読書会が週末に迫っているので、急ぎ読む。
もう、ギリギリ。

今回のプレゼンターはYくんだが、単館上映のマイナーな映画が好きという彼らしいセレクト。
モディアノはノーベル文学賞を受賞したことで一躍有名になった作家だが、日本ではあまりメジャーではなく、本書も長らく廃刊になっていたという。

ノーベル賞を受賞した際も特にオッズが高かったというわけでもなく、春樹さんが有力だと見られていた気がする。

私も読むのは初めて。しかもフランス文学にも馴染みがないのでおっかなびっくりだったが、これが想像していたよりも良かった。余韻が後をひくのだ。
俗にいう「モディアノ中毒」とはこういうことなのかと思った次第。

 

舞台は1965年のパリ。主人公は、ギー・ロランという男。とはいえその名は本当の名前ではない。
ユットから貰った名だ。彼が昔記憶をなくし往生していた時に、ユットは同情して手を差し伸べてくれた。人脈を駆使し戸籍までも手に入れてくれた。
そして、自分の探偵事務所で一緒に働かないかと誘ってくれた。以来ギーはユットの元で仕事を手伝ってきた。

しかし、ユットは探偵事務所を畳むことを決め、ギーは自分自身の過去を探そうと心に決める。
過去を探る手掛かりがつかめたのだ。

そこから、ギーは自分の過去の手掛かりを知る人物から人物を辿ってパリを彷徨う。

レストランの支配人、亡命ロシア人、そしてゲイ・オルロフというロシアの娘…

自分だと思われる男の人生は、果たして自分のそれなのだろうか?
それとも誰か他人の人生に滑りこんでいったのだろうか?


『冬のソナタ』に影響を与えた作品だということで、帯にも白水社の内容紹介も「引き裂かれた恋人たち」に言及しているが、そうしたありきたりの「悲恋の物語」よりも空疎さや虚無性のほうを感じた。

物語そのものも「私は何者でもない」という意味深な言葉で始まっており、読み進めていくうちに暗い夜道で途方にくれる感覚に陥るのだ。

聞けば、モディアノの父親はイタリア系ユダヤ人で、母親はベルギー人の女優だったという。そしてモディアノは、父親が偽の身分証でパリに潜伏していた時に生まれた子供だという。時代性もあるが複雑な出自といっていいだろう。

本書に限らず、モディア作品の殆どがナチ占領下のパリを舞台にしているそうだが、本書の主人公が記憶を亡くした当時の1943年はまさにその渦中。
作中には直接「ナチ」という言葉はでてこないものの、その暗い陰は物語に付き纏っている。

また、本書は探偵小説の形をとっているものの、一般的なミステリとは全く違う趣向に仕上がっている。
あまり言及するのも無粋だが、もしこれにいかにもエンタメ的な答えが用意されていたとしたら、陳腐になってしまっただろう。

そもそも本書を純粋なミステリとして読むのは不可能なのだ。訳者も「あとがき」で指摘している通り年代的にみると齟齬がある。

主人公自身も、亡命ロシア人の老人スチョーパがいうように若いのか、そうではないのか?
ギーという名を持つ主人公と、我々読み手がそうに違いないと考える真相は、真相でない可能性さえ残している。
冒頭の言葉の通り、主人公は何者でもなかったのかもしれない。

それはとりもなおさず、誰しもがユットのいうところの”海水浴場の男”なのであり、そこに長年実存したにもかかわらず、誰一人としてその男の名も知らず、なぜそこにいたのかさえわからないということを示している。

文章は叙情的で甘やかで詩情たっぷり。その謎と相まって余韻が残る。
小道具の使い方もパリっ子らしく洗練されている。端役にすぎない登場人物の台詞の反復や、小説の名が踏む韻、ほのかな胡椒を思わせる香水(時代からしてゲランのMitsukoだろうか)、過去に主人公の力になってくれた男が口ずさんでいた歌などなど…

そういえば、Mitsukoも残り香が素敵な香水である。
ちなみにルビローサが好んで口ずさんでいたあの歌『お前は俺に馴染んでいた』Tu Me Acostumbrasteはこんな歌だ。

     
今も多くの歌手がカバーしているらしい。

 

 

 

Spenth@: 読書と旅行、食べることが好き。