かのジェームズ・ボンドは、サイコパスであるとしばしば言われる。そもそもサイコパス的気質がなければ、スパイなどつとまらないだろう。
しかし、サイコパスなどという診断は実は精神医学の世界には存在しないのだという。その診断基準は今もって論争の渦中にあるらしいが、共感性の欠如というのが最も大きな特徴らしい。
サイコパスについての説明を引用してみると、
サイコパスは人を憎まないこともあるが、愛し愛されるという私たちの多くがしている仕方で、人を愛することもない。
サイコパスは人を思い通りに操縦しょうとし、嘘に長け、口がうまく、愛嬌たっぷりで、人の気持ちを引きつける。彼らは人が恐れるような結果を気にしない。
(中略)しばしば衝動的で、罪悪や後悔の念に苛まれない。つまり、彼らは向こう見ずで危険な遊びに誘っておきながら、けが人がでても、肩をすくめるだけでおしまいにする
いうまでもなく、これらの気質には程度があり、スペクトラムのどこに位置するかによって異なるが、言われてみればそのままボンドにも当てはまる。
ところで、サイコパスには脳に際立った特徴がある。彼らの脳は決まってある一定部位、情動を司る部位の機能低下がみられるという。
本書の著者ジェームズ・ファロンは58歳の時、自分自身の脳に、そのサイコパス脳と同じ特徴を認めた。その事実を発見したのは、全米のおぞましい連続殺人者たちの脳を、そうでないものとのブラインド対照させていた最中だったという。
ファロンは、自らも認めるように、成功した脳神経学者で、有名大学の医学部の教授であり、三人の子供を持つ良き家庭人であり、多くの友人にも恵まれていた。
これまでにどんな犯罪歴もなく暴力的でもないことから、ファロンは自分がサイコパスだとは考えなかった。しかし、サイコパス脳と自分の脳のパターンが一致していたことは、考えさせられる事実だった。
それに加えて、彼の父方の家系は、かのコーネル大学の創設者に連なるもので、過去長きにわたり5指に余る数の殺人者を出してきた家系だったのだ。そして、調べてみると彼自身、いわゆる「戦士の遺伝子」を持っていた。
この戦士の遺伝子(詳しくは、MAO-Aプロモーターの短形型)を持つ人は、怒りを抑制しにくいため、暴力的傾向が強いといわれている。これもシリアルキラーに多くみられる遺伝子型なのだ。
この遺伝子は、暴力的傾向の強い地域で蓄積されると考えられており、紛争地域などでは、この遺伝子型を持つ人が多いらしい。
自らに関する衝撃の事実を知ったところから、ファロンの探求の旅は始まる。
自分は常に多くの友人に囲まれ、楽しくやっていると思っていたが、本当のところはどうだったのだろうかと疑問を抱くのだ。
サイコパス脳にみられるような脳の機能低下の場合、たいてい他の疾患、統合失調症、躁鬱、双極性障害を併発しているという。ファロンの場合も自覚症状は全くなかったが、実は双極性障害を患っていた。(彼の場合、長期間にわたっての軽躁状態がみられたという)
彼は、体重の増減が激しかったが、軽躁状態の時は、4時間睡眠しかせず、痛飲、大食による体重の増加があり、研究結果には目覚しい発見がいくつもあった。
自分では愉快で楽しいやつだと思っていたが、他人からみれば、ただ騒々しいやつだったのだ。その上、全く無意識にこれまで家族を傷つけていたことも判明する。だが、彼はそのことについて「気にしない」でいられた。
ファロンはこうした事実を公にし、またそれをテーマにした数多の講演も行っている。訳者曰く、こうしたことができるのも、サイコパス的な特徴らしいが(笑)
確かにファロンにはサイコパシーが多くあるが、反社会性もなく暴力性もない。過去に犯罪を犯したこともない。彼のような人は、「マイルド・サイコパス」に分類されるといわれている。
サイコパスという事実を公表後、幾人がの友人は去っていったが、未だ彼には多くの友人がいるし、ティーンの時代から寄り添っている妻もそんな父を見捨てない子供たちもいるという。
多くの人は、サイコパスを十把一絡に、危険なシリアルキラーだと認識しているが、決してそうでなく、スペクトラムなのだ、程度の問題なのだということを周知させるにもとても良い本だと思う。
『サイコパス 秘められた能力』でも描かれているが、サイコパシーは必ずしも悪いばかりでなく、その性質はいくらでも良い面に活用できるのだ。
現に、自分がそれと気づかず、各界で活躍している人は多いだろう。
外科医師にもその割合は高いそうだ。繊細で高度な技術が求められ、失敗が許されない手術の場合、執刀する医師が恐怖心を抱かず過度に患者に共感しないことは、そうでない医師が執刀するよりも成功の確率ははるかに高い。
シリアルキラーと同じ脳パターンを持つファロン自身に立脚したサイコパスの「三本の脚」理論は、興味深いものだ。
「氏より育ち」というが、人間には「氏と育ち」双方がどちらも欠かすことなく大切だということなのだろう。
コメントを残す