常識を疑え!「反穀物の人類史 〜国家誕生のディープヒストリー」

ひさびさの教養系読書。
やっぱり本を読むことの醍醐味はこういう読書からこそ味わえるんだなと思う。


反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー

さてタイトルの「反穀物の人類史」だが、「反穀物」とはなんぞや?
穀物とは文字通り、麦やコメといった我々の主食となっているもののことだ。

実はこれら穀物には共通のある特徴がある。それは初期国家との深い繋がりだ。ちなみに初期国家とは主に初期メソポタミアの国家形成期の政体群を指している。

その初期国家は、おしなべて民から穀物を税をして取り立てていた。穀物は古代の徴税にとって非常に都合がよかったのだ。
曰く、目測や分割、貯蔵や運搬、保存が可能で、何より一時期にいっせいに熟すので、徴税官はワンストップで効率よく徴収して回れる。
穀物の大規模栽培なくして国家形成は起こらなかった。

この穀物栽培と国家は、従来人類にとって「進歩」だというのが、常識的な考えだったが、著者はそれに疑問を投げかける。

「サピエンス全史」のハラリも似たような視点で、人間は逆に穀物に飼い慣らされたと表現していたが、本書ではもう一歩踏み込み、国家の内側にいる農民と、国家に属さずその外側にいた狩猟採取民を比較する。国家外の人々とは「反穀物」の人々のこと。

近年明らかになってきたことに、非定住者たる狩猟採取民は農民と比べて栄養状態がよく(肥満という意味ではない)、身長も平均にして5cmも高かったという。
彼らは食うや食わずの生活をしていたのではなく、その食生活は穀物に偏った栄養をとっていた農民よりもはるかにバラエティに富み、豊かだった。
カロリーベースでは食うには困らない現代でも、糖質に偏った食生活の人より、多くの食材を満遍なく摂取する人の方がおしなべて健康だ。ただ、後者はそれなりにお金もかかるけれども。

国家に属し農耕を主体とする定住生活は、それ以外の生活に比べ、経験の幅が狭く文化的にも貧しかったとの主張が展開される。

では、なぜ農民たちはそういう生活を望んだのだろう?と疑問を抱くが、そこにはかなり不愉快な推察が二つほどある。
一つには、それは強制だったということだ。これだけでもかなり不愉快だが、残る一つは人々が「飼い馴らされる」ことで、「でくのぼう」になってしまったということだ。
農業によって、動植物が遺伝的に形態の変化を遂げたのは科学的な事実だ。私たちは、「改良」されていったと思いこみがちだが、実は農作物は野生種に比べ「常に保護が必要にひ弱」になり、家畜は野生種に比ベ大人しいが小さくなったという。
サピエンスにも同様のことが起きたと考えるのは、至極妥当だ。

読み終えてふと思ったのは、現在は国家が世界のスタンダードになっているが、もしそうでなかったら世界はどうなっていたかということだった。
壮絶な適者生存の世界か、それともそれ以外は絶対にあり得なかったのか。

充分に「飼い馴らされた」私としては、日本という国家はこのコロナ禍においても、まあまあうまくいっており、他国と比べても「そこそこ」なのではないかと思ってるけど、もう今の政権は終わりそう。
今後はしばらく短期政権の繰り返しかな・・・

 

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