悪徳小説家 / ザーシャ・アランゴ

唐突だがあなたは性善説を信じるだろうか?
私は「性善説は反論しがたい偏見である」という本書の主人公に賛成である。

人間は誰かの悪口を言ってる時には生き生きするし、人は往々にして褒めるよりも貶すほうが得意だ。(本とか特に)
時に真に善人という人間もいなくもないが、多分そんな人はごく少数だろう。たまたま出会えたならそれは僥倖としか言いようがない。
大抵の人は、いい人でもある一方、多かれ少かれ腹黒い面も持ち合わせているものだ。
 
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さて、本書「悪徳小説家」の主人公、ヘンリーも紛れもなくそういう人間の一人である。というか、普通よりかなり悪徳面に針が振れているほう。
 
ベストセラー作家として知られているヘンリーだが、実は自分では一語たりとも書いていない。作品の全ては妻のマルタの手によるものなのだ。その事実を知っているのは彼とマルタだけだ。
ヘンリーはマルタを愛しているが、魅力的編集者のベティと愛人関係にある。
ところがベティがヘンリーの子を身ごもってしまう。それも新作長編があと少しで仕上がるという時に。
そもそもヘンリーにはマルタと別れる気はさらさらない。ベティとの関係は、性欲のみに基づくものだったのだ。一方、マルタは自分には欠かせない存在で、何より彼女を愛している。
ベティとの別れを決意し、海辺の崖に車で向かうが、魔が差しベティの車を転落させてしまうのだった。
しかし、帰宅したヘンリーを待っていたのはベティだったのだ…
 
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なんでも、この作品はCWA(英国推理作家協会)のインターナショナル・ダガーにノミネートされた作品なのだそうだ。残念ながら受賞には至らなかったが、それに匹敵する出来だと思う。
 
少し前まで北欧&ドイツミステリブームだったし、ドイツものはもういい加減にと思っていたのだが、これはヒットだった。
ただし、キッチリすっきり解決を望む人向けではない。
 
世界25カ国で翻訳され、一躍著者をベストセラー作家に押し上げたらしいのだが、何を隠そう作中でマルタが書いてヘンリーの名で出版された処女作もそういう設定だ。
そして、マルタの新しい長編は、ヘンリーに似た人物を主人公に据えていたりするという凝り様なのである。
タイトルの「悪徳小説家」というのは著者自身のことなのかもしれない。
作中のマルタの最後のメッセージは、「この話がどう終わるのか、わかる?」であるが、それはヘンリーに向けてと同時に読者に向けて放たれた言葉でもあるのだろう。
 
上記のあらすじ以上に、ヘンリーの気分や行動はコロコロと変わり、善悪の境界も真実と嘘の境界すらも怪しくなっていく。
人間の脳は自分に不都合なことを都合よく改ざんする性質を持つというが、ヘンリーのそれは普通よりも格段に発達している。もっと言ってしまえば、彼は嘘つきで、行動の予測のつかないサイコパスなのだ。
 
しかし、不思議とこのヘンリーというと男が憎めない。
ポンチョという犬を可愛がり、友人にも親切で、自分を暴こうとつけ回していた男の命を救ったりもする。読んでいくと次第にヘンリーに魅せられ共感さえ覚えていく。
 
多くの書評家は、パトリシア・ハイスミスの「太陽がいっぱい」のリプリーを例に挙げているというが、確かに同種の魅力がある。
 
反面、全く理解できなかったのがマルタという女性だった。愛人のベティも、若いベティに嫉妬する出版社社長の中年秘書のこともよくわかる。けれど、このマルタについては全然わからない。
ヘンリーに大金が入ってくるようになっても、購買欲も消費欲もなく、貧しかった頃と変わらず毎日自転車で泳ぎに出かけ、夜は淡々と原稿を書く。夫に女性がいるのを察知してもそれを容認し、それを受け入れるのだ。
 
ただし、それはヘンリーから見たマルタの姿に過ぎない。どこまでが本当のマルタなのかもわからないのだ。それを言えば、どこまでが本当のヘンリーなのかもわからない。
誰かをよく知ることなどできないのかもしれない。
 

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