フィクション

大穴 / ディック・フランシス

2016-03-03

週末は、横浜読書会のKさん宅で「ハードボイルド読書会」なのだ。いつもの読書会よりも少人数で、鍋でも囲みましょうという企画である。題して「ハードボイルド鍋」。

課題本はディック・フランシスの『大穴』、鍋はゴマ豆乳鍋と決まっている。
週末は気温が上って春の陽気になるそうだけど、いいの、ゴマ豆乳鍋は美味しいから。やせ我慢し、汗をかきつつ鍋をつついてこそ「ハードボイルド鍋」なのだ。

 

 

ところで、ディック・フランシスの「競馬シリーズ」を私はこれまで読んだことがなかった。以前にいただいたこともあるのだが、ついつい読まないままになっていたのだ。
手がでなかったのは、まず、「競馬」というハードルが高かったというのが大きい。英国の競馬が日本の、例えば横浜の野毛のウィンズの雰囲気とは大きく違うというのは知ってたが、だからといって興味がわくわけではない。

しかし読んでみてびっくり。これが良かった。なので、『大穴』の続編にあたる『利腕』 も一気に読んでしまった。どちらかというと、『利腕』 のほうが私はより好みだった。

菊池光さんの訳もいい。彼の翻訳はどれも好きだが。
当面、新刊に良いのが見つからないようなら、全シリーズ制覇したい。

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さて、主人公はシッド・ハレーという元騎手である。障害レースのチャンピオンんにまで登りつめたが、落馬による事故で騎手生命を絶たれる
引退後は、知り合いの調査会社ラドナー社に籍をおくが、さしたる仕事もしていない。だが、そんなシッドに転機が訪れる。

療養のため義父のチャールズ・ロランド宅に身を寄せたシッドは、義父からシーベリィ競馬場を救ってほしいと懇願されるのだ。赤字続きのシーベリィ競馬場は、その土地の利権を狙われていた。シーベリィは立地が良いため、宅地化すれば株主には大きな利益をもたらすのだ。そのための乗っ取り工作が行われようとしていた。
この義父の依頼に、これまで生き死体のようだったシッドは目覚める。

主犯はどうやら義父宅の客人クレイらしい。クレイがシーベリィの株を買い占めている確証を得たシッドは、全英障害競馬協会の理事長を説き伏せ、ラドナー社の仕事として請負うことになるが・・・
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競馬シリーズというだけあってどっぷり競馬。競馬というか、競馬界の裏事情を描いたといったほうが正しい。
予想どおり、ディック・フランシスその人自身が障害競走の騎手であったのだという。

競馬場にいったことはないが、疾走する馬の蹄の音が聞こえ、芝や泥の匂いまでもが漂ってくるようだった。
餅は餅屋というが、元弁護士の法廷ミステリが読ませるように、元騎手の競馬小説は読ませるのだ。情報量はもちろん、とにかく情熱が違う。

ところで、競馬といえば、今をときめく「五代様」ことディーンなんとかさんは、ちょっと武豊に似てないか?

それはさておき、この『大穴』の良さは、なんといってもシッド・ハレーという男の美学にある。
シッドは、その若き父親が母親と結婚しないうちに死んでしまったという、いうなれば不義の子で、幼い頃から同情というものを信用しなかった。
妻に去られることも、騎手という職業を諦めねばならぬことも、肩をすぼめてやり過ごし、本心は人に見えない胸のうちにしまっている。

”ハードボイルドとは、やせ我慢の美学である”と言ったのは、誰だっただろうか。その意味でまさしく、シッドの生き方はハードボイルドそのものだ。

また、本書は、元騎手シッドが蘇る物語であり同時に自分を解放する物語でもある。
シッドはその左手にハンディキャップを負っているため、いつもその左手をポケットに隠している。左手の機能そのものより、そのハンデに対する鬱屈した嫌悪と羞恥がシッドを「生き死体」にしていたといってもいい。
そんな彼自身に変化をもたらすのが、顔に傷のある女性、ザナ・マーティンだ。互いにハンディキャップを持つ二人の会話には真実と高尚さがある
こうした細部にこそ、作家の品格は宿る

フィリップ・マーロウは、「プレイバック」で、かの有名な「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」という名言を残したが、本書にもそれに匹敵するものがある。

「憐れみと同情は同じものだとお思いになって?」ザナの問いに、シッドはこう答えるのだ。
同情は思慮ある態度だし、憐れみのほうは無作法ですよ。

そして二人は、無作法ならば、逆に相手を気の毒に思って我慢することができるという結論に達するのだ。

本書にはフィリップ・マーロウのようなファッション性こそないが、清廉さと妙味がある。
シッドのように生きたいものだが、私には到底無理だ。妥協ない生き方というのは、痛みを伴うものだから。
だから、ハードボイルドに惹かれるのだろう。

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