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人生のお手本にしたい!今年一番の良書「モスクワの伯爵」

2019-06-27

今年も半分が過ぎようとしている。もう半分であり、まだ半分ともいえるが、間違いなく今年一番の本。読書家としても知られるビル・ゲイツも、この夏のオススメ本として推薦したいたが、それも当然。だって本当に素晴らしいのだ。

あらかじめ言っておけば、この本の日本語版は高い。
紙の本で3,800円、電子版でも3,000円を超える。でも、それ以上の価値はあると思う。思うに、文庫で1,000円という本とハードで2,500円の本ならば、やはり後者のほうが面白いことが多い。安いものは安いなりの理由があり、高いものもまた然り。当然例外はあるし何が面白いかも人それぞれではあるけれど。



モスクワの伯爵


私は同じ本を何度も読み返すことはない(特にミステリなどは読み捨てる)タイプだが、本書はもう連続して3回くらい読み返し続けているほどのお気に入りだ。主人公の伯爵とその生き方が、なんともチャーミングだからだ。
チャーミングという言葉はこの本を読み始めてすぐに浮かんできた。「あとがき」でアメリカの著名編集者が同じ言葉を使ったというのを知り、やはり、それが一番端的に本書を表す言葉なのだろうなと思った次第。

この「モスクワの伯爵」の舞台は20世紀初頭、1920年代から50年代。周知の通り激動と悲劇の時代だ。1917年にロシアでは革命が起き、皇帝一家は処刑され、ボリシェヴィキ政権が誕生してソビエト連邦となった。スターリンの恐怖政治と市民への影響は敢えて語る必要もないだろう。
いうまでもなくロシア貴族にとっては苦難の時代だった。亡命するものも多かったし、逃げ遅れたものは流刑や投獄、銃殺刑に処された。

我らが主人公若き日のアレクサンドル・イリイチ・ロストフ伯爵も、裁判にかけられ、銃殺刑は免れたものの、メトロポールホテルに生涯軟禁されることとなる。

ちなみに、モスクワの中心部、赤の広場からもすぐのボリジョイ劇場の向いに建つ由緒あるこの高級ホテルは今でも観光客に人気だ。



伯爵は革命とともにパリから祖国に帰国し祖母を亡命させて以来4年間、このホテルの豪華なスイートに暮らしていたが、最上階の狭い屋根裏部屋へと移される。かくして長きにわたる軟禁生活が始まる。
ただ彼はへこたれない。コレラで両親を相次いで亡くした時、名付け親であるデミドフ大公からかけられた言葉を思い出すのだ。
「不運は様々な形をとってあらわれる。自分が境遇の主人にならなければ、その人間は一生境遇の奴隷となる。」
この言葉の通りに、伯爵は紳士らしさを失わず生きていく。

チャーミングな主人公を物語に据えるのは実はとても難しい。魅力的すぎると読者を白けさせてしまうからだ。逆に悪人ならば、自分の中に同様の悪を認める正直な読者に支持されたりもする。読者というものは天の邪鬼にできているのだ。
誰しもが伯爵を好きにならずにはいられないのは、モンテーニュのいうところの叡智の確かなしるしー「朗らかさ」をもって、絶妙のバランスで描かれているからだろう。

伯爵の回想シーンにでてくる貴族の煌びやかな生活ぶりとエピソードは興味深い。でももっと興味深いのは、革命によって真逆の時代となったはずなのに、高級ホテルの宴会場で起こる人間の営みは変わらなかったことだ。つまり、そこに来る人間が変わっただけ。中国やロシアといった国々がアメリカやヨーロッパに劣らない超格差社会であることへの認識を新たにするのみだ。

チャーミングな伯爵にも、予期せぬ困難はいくつも訪れる。
ポジティブな人間だって挫けることもある。思いもよらないことをきっかけに、本人の意に反し、敵だってできるかもしれない。でも人はそこから立ち上がることができるし、失敗からは学ぶこともできる。
私が好きだったのは、彼が出直すきっかけとなったシーン。詳細は省くが、その時偶然味わった一掬いの林檎の香りのする蜂蜜によって伯爵は考えを改め、新しい人生へと踏み出していく。
そこからの物語こそが本書のメインディッシュだが、最も印象に残るのはやはりラストだ。当初少しだけ意外に思ったものの、すぐにそれはとても伯爵らしい決断だと感じた。あなたにはどう感じるだろうか?

記憶は五感と深く結びついているものだが、この物語は他の重要な転機となる場面にも特定の料理が印象深く登場する。
そういうところもなんだかいいなぁと思う。たぶん著者自身が、レストランが単に食事を提供する場ではないことを、客として知りつくしているのだろう。高級ホテルもまた然り。

この高価な本を勧める第二の理由は訳者だ。
ちなみに、本書はロシアが舞台ではあるが、著者はアメリカ人で英語で書かれ既にペーパーバック化されているため、英語が堪能な方は、電子版ならわずか660円で読める。
それも悪くはないが、しかし、言葉の選び方、センスやテンポ、醸し出す雰囲気が素晴らしいのだ。その価値は十分あると思う。しかもこの本には、わずか数行の文章が後々効いてくる仕掛けも多い。
絵を観る時、一番良いのは旅先などでその絵が所蔵されている美術館で観ることだ。なんといっても安いし!しかし、優れた学芸員の指揮のもと理解に基づき世界から集められた特別展で目にする絵には、同じ絵でもまた違う深い味わいがある。それと少し似ているかも。

ブッカー賞連続受賞で話題になったヒラリー・マンテルの「ウルフ・ホール」「罪人を召し出せ」はもちろん、クルーガーのエドガー賞受賞作「ありふれた祈り」などなど、思えば好きな作品は皆彼女の翻訳だった。

最後に、この本をロシアの方々はどう読むのだろうか?
この本がロシア語訳され、読むのを許されているならばの話であるが。

    

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