「カズオ・イシグロ講演会」ハヤカワ国際フォーラムに行ってきた!Part1

カズオ・イシグロ講演会に行ってきた!

場所は霞ヶ関のイイノホール。時間を勘違いしていて会場に着いたのは開演10分前!当たり前だがいい席は既に埋まっている。

仕方なく最後列へ。

よく見ると会場の半分以上は招待席。
無理もないが、関係者席多すぎ・・・

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講演会というタイトルがついてはいるものの、第一部、第二部ともにゲストを交えた対談形式。スピーチよりくつろいだ感じでイシグロが身近に感じられる。

一部のゲストは女優の杏ちゃんと文芸評論家の市川真人さんだった。
元々本を読むのが好きで、イシグロ作品も多く読んでいるという杏さんの一番のお気に入りは『日の名残り』だそうだ。

それを聞いてイシグロは少々ガッカリ。というのも、あの作品は氏がかなり若い頃(1985年)のものだからだ。
その後は下る一方なの…?(笑)と感じてしまったらしい。(杏ちゃん、大慌てでフォローするの巻)

ただあの美しい文章もさることながら、バトラーやメイドといった古き時代の英国という舞台設定は、イシグロ作品の中でもとりわけ女性ファンが多い。

それから話題は「世代」へと及ぶ。
彼の奥様は「若い登場人物をだせば、若い世代に人気がでるのじゃない?」と言うそうだが、彼はそれは違うとおもっているそうだ。
なぜなら、彼自身が若い時分には、もっと年配の人々の物語に興味を持っていたから。

イシグロは終戦後9年経ってから生まれた”戦争を知らない世代”である。ある意味、自分たちの世代は試練を免れたという負い目のようなものを感じてもいるという。
もしも戦中に生まれていたらどうだっただろうか。おそらくは、自分の弱さが試されるに違いない。若い頃はそういうことに興味を持っていたという。それは、今の欧米の若い世代の作家も同様だろうと彼は考えているのだ。

 

ところで、彼は35歳の頃、某新聞のインタビューで「小説家のピークは40代半ばである」と発言をしている。
しかし、本もその年代年代で読み方や感じ方が異なるように、書き手も年を重ねれば重ねた分、熟してくるのではないだろうか。その発言の意図は如何に?

「若気の至りで馬鹿なことを言ってしまったんだ…」と前置きをしつつ、しかし文学という百科辞典を紐解けば、偉大な小説家がその代表作を書いたのはやはり40代半ばくらいというのは歴然たる事実なのだそうだ。
トルストイ然り、ディケンズ然り、ゲーテ然り。英国で最も愛されているオースティンに至っては20代!

しかし自分も年をとった今となっては、全力で「そうじゃない!」と当時の生意気な自分に言ってやりたいとのこと(笑)

ただ、若い書き手は時間を無駄にしてはいけないという。彼らは50歳なんて遠い遠い未来のことだと思っているかもしれないが、そうではないのだから。
実際問題、小説家とサッカー選手のピークは5歳程度しか変わらない。

では、その寿命をのばすにはどうすればいいのだろう。
一つにはスタイルを変えてみることだという。あまり走らないようにするとか、ミッドフィールドに下がって指令だけ出してみるとか(笑)
映画やシナリオといった別のメディアへの進出ということもそれに含まれるだろう。

 

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自分の小説が映画化又は舞台化されることについて、イシグロ氏は、単なる翻訳ではなく、自分たち自身の作品にして欲しいと言っている。

そういえば、『夜想曲集』も東出昌大主演で舞台化されたが、もともと5つの短編の物語だったのをひとつの物語に仕立てたものらしい。

小説家というのは、普通そういうふうに思わないかもしれないし、自分は変わっているのかもしれないが、そうすることで小説が社会化されるのだと彼はいう。

元々彼はミュージシャン志望だったのだが、曲を作る際は常に色々な歌手に色々な場所で歌って欲しいと願っていたという。
それと同様に、小説は社会の持ち物となり、その国、その場所に見合ったものになっていって欲しいという。

だが、映画と小説はそれぞれに長所短所があるのもまた事実だ。
例えば『わたしを離さないで』 は臓器移植の話だが、小説ではそれを仄めかすに留まれるが、映画だと最初からオープンにせざるを得ない。

また、イシグロ作品のテーマは「記憶」であるが、記憶というものは映像化には向かない。
それが証拠に「記憶」を上手に描いている作品を思い浮かべることはできないでしょう?という。

彼が思い浮かべる「記憶」とは”静止画”であり、その絵は隅のほうはぼやけて曖昧になっている。
そして小説家はその一瞬を捉えて描く。文字だと巧くいくのだが、これが映像となると動画で現在進行形で全てを明らかにしすぎてしまうという。

自分自身が「記憶」に固執する作家であるせいで、イシグロはシナリオライターとしての自分をあまり評価できないという。小説家としてはまあまあという自負があるけれど、シナリオは駄目らしい。

最後に新作『忘れられた巨人』について。

 

寓話的で、隠喩に富んだ物語だと感じたという杏さん。「色々と分析されたり、深読みされるのは小説家としてどうですか?」という少々答えにくい質問に対し、イシグロは、こう答えた。

「自分としては暗号のような小説は好きじゃないし、読みたいとは思いません。(えっ!そういう小説だと思いましたか?というニュアンスで)
自分が小説で表現したいのは、何より” 感情”であり、読者とそれを分かち合いたいと考えています。フィクションという手法が好きなのは、”感情”を表現できるからなんです。」

「感情を読者と分かち合いたい」このことは取りも直さず、サルトルの「飢えた子供の前で文学は何ができるのか」の議論にも通ずるのかもしれない。
小説にできること、それは飢えた子供にとって第三者たる読者の感情を想起させることに他ならない。

長いので、第二部はまた後日!

※なお、本記事は私のメモと、あてにならない記憶によるものです。
理解や解釈において及ばない点はご容赦ください。

 

 

 

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